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ハザールマフィアの陰謀…岩戸開き

五十音言霊原理を身に付けハザールマフィアの陰謀=資本の論理を打ち砕き共存共栄の道に進もう!

はじめに②

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mistoshi
そんな朝堂院さんが心底惚れて応援したのが後藤田正晴である。
「調子のいいことは言わず、笑わない、小遣いも少ない。重心が低く、浮き足立っていない。私の肌に合うんですよ」後藤田に女性スキャンダル等はなかったのか?
「まったくないよ彼は。なんぼ世話すると言っても嫌がった」
朝堂院さんの政治家をめぐるさまざまな秘話を聞いても、後藤田は珍しいタイプだったことがわかる。
「清廉潔白で金に節度があった。武士道の質実剛健さも備えていた。国の重要事項をぱっぱと決められるのは、公明正大で、公利公道の心得があるから。魅力的でしたよ」と後藤田に対してはベタぼめである。
朝堂院さんの話を真偽不明、荒唐無稽と一笑に付すことはたやすい。しかし、いまの日本の現実は朝堂院さんをいかがわしいと切って捨てるほどまともと言い切れるのだろうか。30年続いた平成の世で、日本社会には拝金主義が絶望的に浸透し、政官財の権力者たちは国民を顧みず、自らとその周辺を利する振る舞いに終始する。歴史修正主義は公然とまかり通り、あるべき社会の矜持は失われ、蔓延する不信は短絡的な権力者支持と排外主義をますます推し進める。
こうした危機的な社会状況において、昭和から平成の日本を裏から見つめ続けた朝堂院さんの見解は、むしろ正論となり得る。なにが表でなにが裏か判然としない、この混沌とする日本社会の歪を正すカギは、朝堂院さんの一見突飛な視点にこそ潜んでいるのだ。
朝堂院さんがつぶさに語った「戦後日本の闇」に光を当てることで、現代日本の闇の正体を本書にて炙りだしてみたい。
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はじめに①

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ナミレイ(改称前は浪速冷凍機工業)のモーレツ経営者の松浦良右(まつうらりょうすけ=本名)として知られていた朝堂院大覚さんは「そごう」の怪物経営者と称された水島廣雄元会長の逮捕劇など、アングラ経済事件にたびたび登場し、率直に言って敬遠したい存在だった。
政界では後藤田正晴元官房長官、石原慎太郎元東京都知事らを物心両面で援助し、PLO(パレスチナ解放機構)のヤセル・アラファト議長やフィリピンのマルコス大統領、果てはかのマイケル・ジャクソンにまで交遊は及ぶ。井本台吉検事総長らを招聘して法曹政治連盟を設立する一方、創価学会や山口組、稲川会にも隠然たる影響力を保持し、まさに“最後のフィクサー”と言うべき人物である。そんな朝堂院さんが黒幕として関わってきた話は非常に興味深かった。
「この国のために真実を話します」と宣言した朝堂院さんは、ロッキード事件で馬脚を現した右翼のボスの児玉誉士夫を「児玉は日本最大のフィクサーと呼ばれておるが、私からすればトップレベルの“売国奴”ですわ」と規定し、自民党の誕生について、こう語る。
「その児玉が持ってきた金でできあがったのが自由民主党(自民党の前身である日本自由党)です。流れ込んだ金はのちのち右翼利権として定着した。GHQ(連合国軍総司令部)は児玉に経済関係をまとめろと言い、笹川良一には競艇(現「公益財団法人日本財団」・2011年まで財団法人日本船舶振興会)などの娯楽利権を与えた」
この児玉や笹川と安倍晋三の祖父の岸信介が結託して自民党はスタートした。
竹下登を「本当にずる賢い。10回以上メシを食ったが実につまらなかった」というので、
「安倍晋三はどうですか?」と水を向けると、
「安倍のトランプべったりな姿勢のせいで今も外交も経済政策も、八方ふさがりで行き詰まりだ。他力本願で自分自身の能力はゼロでしょう」と吐き棄てた。

あとがき②

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mistoshi
現代社会ではプラウトさえも、理想主義と見られてしまいがちです。実現への道は平坦なものではないかもしれません。
それでも、私たちはこの理想を現実のものとしなければなりません。そしてそれは実現可能であると思います。
何故なら、今、時代は私たちにとって「追い風」となっているからです。
北海道から沖縄まで、全国の至るところで、志を同じくする方々を通じて神のキが甦り始めています。こうした光の点は、線とつながり、やがては線は面となり、日本列島は新世紀に向けて燦然と光輝くことになるでしょう。
日月神示には、
「岩戸開くと申しても、それぞれの岩戸あるぞ、大工は大工の岩戸、左官は左官の岩戸と、それぞれの岩戸あるから、それぞれ身魂相当の岩戸開いてくれよ」(『下つの巻』第2帖)
とあります。「岩戸開き」と一口に言っても、国の岩戸もあり、世界の岩戸もあり、三千世界の大岩戸もありますが、おろそかにしてはならないのは、個々人の岩戸です。
今日の高度に発達し、複雑化、細分化されている現代社会においては、やはり様々な人が、それぞれの立場において、個々の岩戸を開くということが肝要となって参ります。
一つの物事、一つの世界に囚われることなく、全体としての流れをホリスティックに見つめながら世の真理を洞察する中で、自分の置かれた環境を足場として、そこからまず岩戸を開いていく。そうしたマコトの神の臣民にふさわしい生き方を貫くことこそ、私が一連の著作活動を通じて訴えていることなのです。
楽観は出来ないものの、まだこの世はけっして捨てたものではなく、努力次第によっては大きな犠牲を払わずに、新たな時代を迎えることが出来ると私は信じております。
どうか本書をお読みになられた皆様も、それぞれの立場において、与えられた環境を神からの尊い恵みであり試練と受け止め、見事ご自身の岩戸を開かれますよう、心より御祈念を申し上げ筆を置きます。

あとがき①

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mistoshi
…一人一人がそれぞれの立場で岩戸を開く時
私の提唱する神道経済とプラウトとを合わせて、緊急出版したい。
こういう企画が編集者からもたらされた時、私は正直言ってとまどいを覚えました。
プラウトという言葉は、最近のラビ・バトラ氏の本にも紹介されているので知っておりましたが、日頃の不勉強で、それがどんなものかはよく知りませんでしたし、日月神示の内容や、神道の根本原理と重ね合わせることの出来る接点が果たしてあるのかどうかも分かりませんでした。
この企画が持ち上がったおかげで、プラウトについての資料に接する機会が突然にもたらされ、またアナンダ・マルガの方や、ラビ・バトラ氏の御縁のある方と次々お会いし、お話しすることが出来ました。
正直言って、いろいろとプラウトのことが判り始めるにつれ、本当に驚きました。
接点があるどころか、真の神道が理想とする次世代の経済システムのあり方と、ほとんど矛盾するところがないのです。
むしろ、私が前著『神道経済救国論』(KKベストセラーズ)で書き下ろした主旨は、神示によればどのようなものがマコトの政治経済のあり方とされているかということでした。それは言わば神の目から見た理想の姿であり、今後の私たちの向かうべき方向を示唆したもので、ではそこに至るまでにどのような過程を経たらよいのかという具体論については触れられなかったのです。
そこに、プラウトの経済というものが最近脚光を浴び始めて来ました。
私は、プラウトは、神道経済に基づくいわゆる「ミクロの政治経済」を実現するための最初のフェイズ(発展段階)として施行されるべきものではないかと思います。
いきなり金の必要の無い世にしようと思っても、それはなかなか難しい。小さな小さなムラぐらいは作れたとしても、あまりに一般の常識から離れているために、一種のカルト集団のような目で見られるだけで終わってしまう可能性もあります。
プラウトは、宗教的なところがありません。いわば哲学であり、理念であります。それがまた、世界の国々で受け入れられる普遍性を持っております。
日本にもこの理念は、十分に受け入れられる素地があると思います。しかし、日本の場合は、そこで留まっていてはならないのです。日本人はどこまでも、日本人の霊性に合った、神の御意にかなった真実の祭政一致を目指さねばなりません。
もちろん、そうしたことはプラウトの範疇外のことです。ただプラウトでは、世界に共通する新たな経済理念とともに、国や民族、地域に応じた経済システムを確立すべきであるということを主張しています。

共同体モデルの建設②

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mistoshi
「一応は世界一家の型出来るのじゃ。がそれではならん。それを超えて、練り直して、マコトの一家となるのぢゃ」(『春の巻』第29帖)
「新しき型はこの中からぞ、日本からぞ。日本よくならねば、世界よくならん」(『春の巻』第47帖)
このように、神示には「型」という言葉が頻出しています。そしてその言葉の中には、様々な意味が込められていると思います。
プラウトのような、新しい経済システムを採用した共同体モデルを建設することも、大きな「型」の一つでありましょう。
経済理論としてはプラウトに基づき、霊的原理の実践として正しき神祀りを中心に据えた共同体づくり。こういう「型」を、たとえ小規模でも打ち出していくことが、日本人の霊性に合った経済システムの確立につながっていくのです。
プラウトと神道経済の融合は、必ずや日本を崩壊から救い上げ、再生へと導く“足がかり”となるでしょう。
残された時間はあまり多くありませんが、私たちは恐怖や焦りといったネガティブな想念に翻弄されることなく、一歩一歩着実に、歩を進めていかなければなりません。もはや新しき世紀は、すぐ目の前まで迫って来ています。
そしてその新世紀を、永遠の繁栄を約束する輝かしき時代の幕開けとして晴々しく迎えることが出来るか否かということは、神でも悪魔でもなく、私たち自身の裁量にかかっているのです。